NPO法人 ダイアローグ実践研究所 早期ダイアローグコース(2017年12月1-3日) 参加所感

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孫 大輔(医師, 東京大学)

 

トム・エリック・アーンキル先生による早期ダイアローグの3日間のコースに出席した。オープンダイアローグ(Open Dialogue: OD)でも、アンティシペーションダイアローグ(Anticipation Dialogue: AD)でもない、「早期ダイアローグ」(Early Dialogue: ED)というものについて、その哲学から実践の導入までを学べた密度の濃い3日間であった。正直に言うと、自分の中でADEDの区別がついたのは最終日の終わりのほうである。それまで、ADのコースだと思っていたため、未来志向のクエスチョンのワークはいつ始まるのだろうか…とまったく勘違いしていた。

EDは、精神医療におけるODや、子供や若者、家族、市民とともに未来を描くADの基礎となる、自分の懸念(worry)を切り出す早期の対話のことである。日常におけるグレイゾーンの懸念(懸念が増幅していくような状況)に対し、日常的な場で実践することができる。むしろ、日常において、早期に懸念をオープンにして対話をしていくことで、心配の種に対して相手の協力を得て、解決に向かうことができるのである。

トム先生の講義は、とにかく対話の哲学や、なぜ◯◯なのか、といった基礎的なところにたっぷりと時間がかけられる。「対話というのは、応答の招待(invitation for response)なのである」ということ、「懸念(worry)があるところでは、予期(anticipation)の内的嵐が起きている」こと、その内的嵐を脱するには、「懸念に対して、早期に対話すること」が有効であること。これら一つ一つの言葉の意味を噛み締めていくと、ふだん私たちが行なっている会話では、「応答の招待」になっていないどころか、自分の言いたいことを一方的に投げつけているような形になっていないだろうか、また、懸念に対して蓋をして対話を諦めていないだろうか、といったことを痛感させられた。

そして、トム先生の3日間の講義の中で私にとって最も革新的だった言葉は以下のものである。「180度見方を変えること:自分の懸念を切り出し、その懸念を小さくするために、相手の協力や助けを求めること」。相手に対して懸念や心配があるとき、問題は実は相手にあるのではなく、自分の中にあるのかもしれない。そして、懸念を抱いたほうが、むしろ相手を尊重し、相手から「助け」てもらうように働きかけることが重要である、と。ここでは、私たちコース受講生は、ダイアローグのファシリテーターのような第三者的な立場というより、むしろ「当事者」として、懸念・心配ごとの「相談者」のような立場として、このEDを行うことになることに初めて気づいた。自分たちは対人援助職であり、専門家だと思っていたのが、そうではなく、私たちは援助する/助ける側ではなく、助けてもらう側になるのである。まさに180度の視点の転換であった。

ここで、トム先生は、他者への無限の尊重を説いたエマニュエル・レヴィナスの哲学を紹介した。「他者(自分とは別の唯一無二の人)とは、常に自分の理解を超えたものである。こうした異質性、相異性、他者性こそが、対話を必要かつ可能にするものである」と。レヴィナスは、他者は無限の存在へとつながる扉のようなものであり、自己にとって「異質」で「理解不可能」な存在である他者こそ、常に尊重すべきであると考えた。従って、なぜ対話が厄介なものであるのか、というと、他者そのものが異質なものであるからであり、しかしながら、対話によってしか、他者を理解できないということ。対話をするということは、常にその他者の異質性に対して尊重するということである、ということをトム先生から学んだ。

3日間のコースは、こうしたダイアローグの基礎となる哲学をたっぷりと学び(完全に理解できないこともしばしばであったが)、早期ダイアローグの練習ワークを何度か行い、トム先生に対する質疑応答が行われつつ進行した。最後には、修了証をもらい、早期対話をメモするためのムーミンノートをもらい、大満足で終了した。

その後、レヴィナスの「全体性と無限」を購入し、少しずつ読み進めている。3日間もの長い時間、講師を務めていただいたトム先生と、準備と運営でお世話になったダイアローグ実践研究所スタッフのみなさまに心より御礼を申し上げたい。