<NEW>まちづくりに関わる人と人との対話

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籔本亜里さんが、ご自身が相談者として行ったAnticipation dialogues(AD)について文章をよせてくれました。相談者としての葛藤から当日、その後と、どのような物語なのでしょうか。
手順や構造に焦点があたりがちなADですが、ちがった側面が伝わってきます。


エイジングしてく社会と “未来語りのダイアローグ(AD)” 
人のつながりで健康になる

地球上に戦乱あり、さまざまな災禍あり、『未来』という言葉が一人歩きをしているように感じられる昨今。
幸福度は停滞しているが他国にくらべればまだ平穏な日本という国の首都圏の一地方にいて、
私は、その日“未来語りのダイアローグ” Anticipation dialogues(AD)の招待状を書いていた。
目の前にある関係性について、自身の心配事をなんとか書き綴った長い手紙を送り終え、祈るような気持ちで参加を呼び掛けていた。
“未来語りのダイアローグ”(以下、ときにAD)___。
その日、私が“対話(ダイアローグ)”の招待状を送ったのは、20年来まちづくりの現場の旗振り役であった主に60代よりも上のいわゆる高齢の人々であった。
そしてその事務局を担ってきた行政職員の面々であった。

都市近郊の田園都市、阪神大震災の頃より広く区民の声を聴く対話の会を200回以上開催し、官民一体となってまちづくりと、地域コミュニティの発展に貢献してきたという歴史と数多くの逸話をもつ中間支援組織。
ひろく現場で活動する公募委員に加え、町会連合会、PTA、学校、企業や医師等三師会の人々やメディアの人々も名前を連ねていた。
足腰は弱っても、誰もが活弁で時折冴えた発言をぶつけてくる。

私が“未来語り”と言うと、“未来”を、“明日”くらいに言い換えたほうがいいのではないか?と真っすぐに質問を投げかけてくる人々であった。

2022年10月。
行政との協働をうたい、約20年以上の歴史を持ち、“つなぐ むすぶ ひろげる”をコンセプトとしてきた、そのまちづくり推進組織が大きく揺れていた。

地域では、行政の他の課主導で、より若い、あらたな顔触れ、プロフェッショナルな人材等を集めるあらたな組織が、いままさに立ち上がろうとしていた。
職員もそこでは事務局ではなく、新たなテーブルの一員となる構図であり、
背景には、日本のどこの地方にもある超高齢化の問題が大きく影をおとしていたといえると思う。

日本がこれから向かう超長少子高齢社会。
とくに日本のような経済成熟国・高齢国は、国費投入型の社会保障政策では、もはや財政的にやっていけない。
私自身、役員として関わる以前に、“エイジング”に関わる仕事に携わり、
課題解決、諸問題の解決は、税金や補助金等の国費投入ではなく、健全な収益事業=ビジネスで行うべきという風潮も何度も聴かされていた。

背景には、そうした事情、内実もあってのことであろう。
官民一体となってデモクラシー等と理想を掲げてやってきた市民活動のほうが、高齢化やコロナ災禍とあいまって心ならずも座礁しようとしていた。
実際、旧組織を解体し、あらたなメンバーを募り緩く繋がる、行政も市民主体の新組織、あらたなテーブルの1メンバーとなる。そのような“緩く繋がる”まちづくり推進組織が、近隣の区では次々に立ち上がろうとしていた。

上からの指令で改革を推し進めなくてはならない行政職員とのあいだで、
理事会は言わずもがな紛糾し、大いに揺れていた。

意識が高く誰もが弁が立つ、議論を繰り返し合意形成をしてきた面々であった。しかし、このまま“議論”を続けていたとしても、この先の未来は明るくない・・・、そう思い立ったとき、私はダイアローグ実践研究所の連絡先を3年ぶりに探していた。リアルダイアローグができないか、限られた日程を伝え、ファシリテーターを依頼した。

私はかつて学んだフィンランド人講師たちのこれまで出会ったことのなかった聴く力、聴いてもらうという力を思い起こし、“未来語りのリレートーク”等と名付けてまちでダイアローグの片鱗を行ったこともあったので、
幸い、“ダイアローグ”という言葉それ自体は、区役所の行政職員のなかにも、まちづくり推進組織の人々にも浸透しはじめていた。
しかし、私にしても、自らの方角に指を向けての”未来語りのダイアローグ(AD)”ははじめてだったといえる。
そして、“未来”に飛ぶ=時間軸を未来に移行して、共に現在を振り返る“ということが果たしてできるのか、私の “心配事”を描くその手紙は、果たして招待状として当日人を集めるのに足りるものか、これほど不安だったことは近年にない。

前段が長くなってしまったけれども、
“ダイアローグ(AD)に参加してほしい___”と、活動をともにし、よく見知った顔ぶれの人々に向けて手紙を書く。しかも自身の“心配事”として心の内奥まで降りて行ってそれを書く。
とまれ日々日常生活のなかでは、毎日顔を合わせても、なかなかどうして言葉にできないことを書き、文字にし、かたちにして長文の手紙を書きおろすことになった。
手紙の作成にあたっては、あらたに研修を受けたコーディネーターが私とオンラインで対面し、何度も私の話を尋ね、聴くことをしながら、心配事を浮き彫りにしていく作業に付きあってくれた。一対一で私と対話し、聴くことをしてくれたことには感謝している。

招待状は一斉メイルではない、個別に送ったはじめての招待状である。
60代~80代の世代が大半であった。高齢の人々も手紙という手段には応じてくれ、18人ほどの理事たちがその日参集できる見通しはたった。
 が、当初その時点では、行政の4人の職員は、会合がいつものように紛糾し、自らに追及の矛先が向かう事をおそれてのことだろう。当日は大会議室で市民だけの集会としたらどうかと逡巡していた。

私の懸念、心配事については、これまでの経緯について知ったファシリテーターは、あまりある理解力で示唆に富む提案をしてくれていた。

行政職員も、ぜひ同じ部屋に居て、たとえついたての向こうで顔の見えない設営をしたとしても、同じ部屋にいること、そして一人ひとりの声を聴くことをすべきじゃないだろうか、とアドバイスがあった。これまで、そしてこれからも一緒に活動していくのならば、と。
結果、10月のその日、行政職員も4人全員招待、全員参加の開催となった。
区役所大会議室にて、“未来語りのダイアローグ(AD)”となった。

そのまえの会合の空気をいったん入れ替える必要もあるから、として、会場は一度空にされた。参加者たちには思い思いに役所内を散歩してきていただき、小一時間後、会場の前に集合。
入り口では、ふだん目にしたことのないようなカラフルなシートが配られた。各々高齢の参加者たちはそれを手にし、廊下で“呼ばれたい名前”を書く。そのようなちょっとした試みを通して、人は弾む心を醸成するのだと思う。廊下の通路が一瞬沸き立った。
そして、ADは定刻どおりにはじまった。

入場時には、一人一人の手にはまっさらなA4の白い紙が手渡された。
私と、ファシリテーターとが、はじめの挨拶を終えると、
あらかじめ板書した3,4のホワイトボードに書かれた質問事項について自ら考え、書いて記すようにと静か指示がある。
“未来語りのダイアローグ”のはじまりだった。
ペンの音だけが走る・・・。ふだん見知った顔の20人あまりのメンバーで、同じ会議室ながら、あまり経験したことのない静謐な時間が流れた。

『未来に行く』、未来へと移行していく__。
私たちの生きている時間軸をずらし、一年先の翌年に、または三年先の未来へと移行していく___。可能なかぎり、集う人々と共に。
そして、次には、その地平より、過去である“現在”を振り返るのだった。

『未来に行く』___。そこのところが上手くいきさえすれば・・・、そこから対話をすすめていくことができる、といった開発者のトム・アーキル(Tom Erik Arnkil)さんの言葉が私の胸に残っていた。

決して年齢によるものではない。が、そのためには、正直知力と体力をかけあわせ、想像力で一歩を踏み出すことが必要だろうと私は感じていた。
この日は、ファシリテーターの誘いにしたがって未来に行き、そして新たな地平でも対話は続けられた。

二人のファシリテーターは、書記とインタビュアーを交互に担当し、丁寧に人々の声を聴いていった。
参加者が一人一人口にした言葉を、そのまま繰り返し、または何度も、”こういう風に私は聴きましたが、それでただしいですか?それでよかったですか?
と繰り返し尋ねていた。

いわゆる一市民としてまちづくりに関わっていた、住まいのあるまちを下支えしてきた人々は、インタビューされるのも稀なら、声を大事に聴いて、聞き返し、さらに一語一句聞き違いがないかどうかをファシリテーターが何度も頷いては確認する、そのように聴かれることもはじめてにちがいない。

会場に集まった面々は、いわゆる日本的な同調、予定調和のために、言葉を飲み込んで抑止しあう間柄ではない。が
おそらくは、この目の前の関係性のなかで、そんな風に丁寧に自らの、互いの言葉を聴きあう、聴かれたことはこれまでなかっただろう。
自分の発した言葉をこれほど時間をかけて聴いてくれている、あるいは隣人の言葉を黙って聴く・・・、
私自身、それが、これほど大事な時間とは知らなかったといえる。

各々が自身への言葉への他者の真摯な眼差しを感じている、“信頼”とでも呼ぶべきある空気が、次第にその場の空気になっていった。
また、ある男性は、自分の言葉が丁寧にホワイトボードに書かれるのを一心に見つめていた。そぎ落とされて核心に近づいていく、言語化されていく言葉を読み、自分のなかで繰り返し語りながら、何度も頷いていた。
AD(Anticipation Dialogues)=未来語りのダイアローグ(邦訳)の意味、この一連の流れについての意味等についての質問も途中あがった。が、ファシリテーターによる“未来への想い”を強化する、という説明に、理事も職員も頷き、納得した。

ちなみに、今回、会場の椅子の並びは、細心の注意がはらわれた。
比較的経験豊富な年配の役員を円の外側に、ふだんあまり発言する機会の少ない委員を内側に二重の円を配した。
一人ファシリテーターが、今回はとても重要なことと思うので、と前置きして、私のほうで先に席の配置を決めてほしい・・・と。ダイアローグの開催前に私を促して言った。話しを聴く順、聴かれる順・・・、そうであった。今回は、事前に経験の浅い、声の小さい、普段あまり発言をしない人を内円に、声の大きな発言力のある人を外円に、
それもさり気ないが、素晴らしいアイディアであり、私は普段馴染のある人々の顔を思い起こしながら、事前に席順の配置図をこしらえていた。20人もいる組織だと、実にこれも相談者として事のほか難しい作業であった。
区役所の職員は、さいごのほうで一人ずつ話した。普段はなかなか話さない各々自分自身の気持ちを、市民の前でした。
職員にはファシリテーターに話すという安心感があったのだろう、
“もし自分が役所の職員でなかったら・・・”といった、普段話さない内奥にある言葉も発語され、続く言葉も共感を誘う、これまでの会議ではいっさい聴いたことがない、それは胸をうつものだった。

理事たちも、各々がふだんあまり聴かない隣人の声を聴いた。
一番驚いたのは、自身の声を聴いたことだったかもしれない、けれども、誰もが話しながらその声を聴き、静かに頷いていた。
理事会で毎回聴いていた、反発、言葉尻をとらえて人を攻撃する言葉は、不思議なほど聞かれなかった。
なだらかな、ある静かで澄んだ時間、あるあたたかい時間が流れた。

この日、ADの相談者となって人々を招聘した私は、目を見張った。
そして、静かな感慨に深い時間の流れを感じていた。
会場で、その日その場にいて、組織の役員であるまえにひとりのADの相談者であった私は、自分の書いた“心配事”についての手紙の文言を思い出していた。

この場に誘う招待状、一通の手紙は、今回のADでは、誰よりも私自身が不安なのであって、私の不安を助けてほしいとその一心で書いた手紙であった。決して上手くできたとは思えない。最良の手紙でもなかっただろう。
もしかしたら、その手紙の心の在処は私だけではなかったかもしれない。会の始まる直前に、ファシリテーターと話して肝に銘じた。
ダイアローグの開始の挨拶では、はじめにファシリテーターの紹介とともに、
相談者の挨拶=集まった人々に向けて話す場面がある。人は、すでに書かれた手紙の内容についてはつい朗々と語ってしまいがちなものであるが、しかし、この時は、素朴に自身の心配事は口にしても、おそらくは熱を込めて上手く語り過ぎるはよくないのだろう。

その場で、これから各々自ら、自分の声でまさに対話をはじめるであろう人々が、そちらの語彙や文脈に影響を受け、引っ張られ過ぎて一面的になってしまうおそれもある。
相談者のはじめの口上は、あくまでも各々の声を誘うものであるのがいい。

私自身実際やってみると難しかったこともあり、今回の“未来語りのダイアローグ(AD)”において、なによりも慧眼なアドバイスといまも大事に感じている。
唯、今言えることは、この“相談者の手紙”、そして“目の前に座って一人一人の話に頷くことを繰り返しながら声を聴くファシリテーター”、そして、“発語された言葉をできる限り正確に聴きとり板書するもう一人のファシリテーター”、どのアプローチ、どの役割、そして関係性が一つ欠けてもおそらく最良のADは成り立たないにちがいない。
それは、古代ギリシア神殿建築のようにしっかり建造され、構築されたあるメソッド、流れなのだったと私は感じていた。定型的な質問項目、決まった形式、と思はれ、またそう思はれがちなADだが、それがいいのだった、と。
唯、あらかじめ用意してきたよくできた回答ではない、しんとした厳かな時間のなかで、その場ではじめて各々の深い腹底から掘り起こし、彫りきる言葉を、
目の前の人々の前に各々声に出して共有すること。
隣り合わせた人の声を聴き、促されて自らも声を発する、
すると、関係性があらたに動き出していくのだった。

あらかじめ一人でドキュメンタリー映像を観、用意してきた素晴らしい感想ではだめなのであった。
いまさらながらではあるが、ダイアローグは人と人、その声をその場で聴くことによって共有する、その時間の流れ、そのものの尊さを想う。

最後の場面で、私は、その日その場に集まって声を聴かせてくれたことについての感謝と御礼を皆に述べた。手紙を書いたときとは違って、言葉が自然に溢れた。

“計画を立てる”ことは、またの機会に譲ったが、
その日以来約半年、中間支援組織の、かつて二項対立に分かれて、互いに追及しあうようなかたちで紛糾していた議論は姿を消し、今に至っている。
各々がなにをか捨てたかもしれない。または見出したのかもしれない。
あらたな組織の在り方を描き、すすむべく在り方を思い描くようになっている。

そして、私には、この未来語りのダイアローグ(AD)の場を経験し、今あらたに思い描くことがある。一人一人がこれからなにをしていきたいか、ここからどんな未来をつくっていきたいのか、あらたにどんな未来を創っていこうか、
まちづくりに限らない、そしてそれは決して、若い青年や子供たちのための質問ではない。
“未来”は、決して若い青年に向けたインタビュー項目ではなく、ここ日本でともに年を重ねていく高齢といわれる人々にも、いまこそ問いかけ、より語ってもらう価値があると、私自身がある確信をもって思うようになっている。

少し先の未来を見据えながら、なにを大事にしてやっていこうか、と。いまを一緒に考えて各々が動いていくこと、を。

余談だが、明日、北欧に向けて発つ。これを書き終えたら、荷造りをはじめないとならない。
“未来”を、たとえ“明日”と言い換えたとしても、
エイジングする社会のなかで、人と人のあいだでいまよりも健康であるために、
ダイアローグを、ADをしばらく続けて行きたいと思っている。

籔本亜里     2023 7 27 書き下ろし